「こうなったのは自分が悪い」のか? ごみが腰まで堆積する孤独死現場が伝えること

誰もが羨む一等地にある一軒家は、腰のあたりまでごみが堆積し、室内は糞便で溢れていた━━。内閣官房に「孤独・孤立対策担当室」が設置された。しかし現状で言えば、待ったなしだ。
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コロナ禍において、内閣官房に「孤独・孤立対策担当室」が設置された。

私自身、孤独死の取材に長年携わっているが、奇しくもコロナ禍によって孤独、孤立の問題が表ざたとなり、国家が動く事態になったのは予想外だった。しかし現状で言えば、待ったなしである。

ごみ屋敷は「死」と隣り合わせ

先日、取材で特殊清掃業者と共に、関東某所のごみ屋敷を訪ねた。

その一軒家は、誰もが羨む一等地にあった。だが、辺りには木が鬱蒼と生い茂り、室内は荒れ果てている。中に入ると、どの部屋も、腰のあたりまでごみが堆積している。そして室内はどこかしこも、糞便で溢れていた。トイレは汚物が詰まり真っ黒で、使えなかった。

女性は、この荒れ果てた過酷な環境の中、誰の助けも求めずに、ひっそりと長年生活していたのだ。近隣住民に話を聞くと、これまで特に異変を感じることはなかったという。庭の木が生い茂りすぎて、近隣住民も中の様子まではわからなかったのかもしれない。

ごみ屋敷の中の取材をしていると命の危機は、とても身近にあることがわかる。

ふと足を滑らせたり、転倒することが日常茶飯事なのだ。足を骨折して、そのまま動くことができずに立ち往生してしまうこともあるし、ゴミにつまずいてドアに頭をぶつけ、不幸にも亡くなったというケースもあった。

女性はいつ命を落としてもおかしくない状況だったが、かかりつけ医によって福祉の目に止まり、ギリギリのところで施設に入ることになり、事なきを得た。しかし、もしこのままこの家で生活していたら、彼女は間違いなく命の危機にあったといっていい。

孤独死の8割は、こうしたごみ屋敷や、医療の拒否といった自分で自分の体を痛めつける、生きる気力すら失う深刻なセルフネグレクト(自己放任)に陥っている。

「これから一人でどうやって生活していったらいいんだろう」

これからの季節、暑さが人の命を奪う。特殊清掃業者にとって、この梅雨の時期から夏の時期にかけては繁忙期となる。熱中症による死が相次ぐからだ。

これから押し寄せる夏の暑さは、人の命を本当に易々と、そして無残に奪っていく。ごみ屋敷になると、エアコンが壊れていたり、経済的にも困窮していたり、そもそもつけられる状態ではなかったりする。少し前に訪れた熱中症で孤独死した人の部屋では、エアコンが壊れていて室温を測ってみると、ゆうに40度を超えていたこともある。

夏場はごみが熱を持ち、室内はとてつもない温度にまではね上がる。エアコンがないと、いとも簡単に人の命は危機にさらされる。

2020年に取材した60代の女性は、まさに夏の暑さに命を奪われたケースだった。女性は長年精神疾患を患っていた。かつて、女性は親子三人で暮らしていたが、父が数年前に亡くなり、母は認知症で介護施設へと入居。一人残された女性は、夏場に一人で孤独死した。長期間放置されすぎて、死因は不明だったが、恐らく熱中症ではないかと福祉関係者は話す。

庭の草は腰辺りまで生い茂り、近隣住民、親戚も一家を見て見ぬふりして、寄りつかなかった。後ほど家の片づけに訪れた福祉関係者によると、「これから一人でどうやって生活していったらいいんだろう」という彼女の戸惑いが記されたメモを見つけたという。

これまで一家は誰を頼ることもなく、家族だけで懸命に支え合って生きてきたはずだ。しかし、そんな中家族が一人、また一人と居なくなり、たった一人残された女性は、不安で仕方なかっただろう。女性の気持ちを思うと、たまらなくなる。

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Kakizaki Hajime / EyeEm via Getty Images

孤独死の平均年齢は約61歳、発見まで平均17日

孤独死現場には、そんな孤立が蔓延した日本社会の悲しい現実が溢れている。人とのつながりはあったが、たまたま遺体が見つからなかったケースもあるが、ごくまれだ。

孤独死そのものが不幸なのではない。だれともつながれないことによって、福祉の網の目にもかからず、過酷な環境で死を迎えざるを得なかったことが、やるせないのだ。

日本少額短期保険協会による孤独死現状レポートによると、孤独死者の平均年齢は男女ともに約61歳で、平均寿命と比較し20歳以上若くして亡くなっている。現役世代も約4割を占める。

孤独死発生から発見までの平均日数は17日。ある特殊清掃業者は、本人の生前の孤立ゆえに身も心も蝕まれ、結果、遺体も長期間見つからないのだと嘆く。

日本の孤独死者数、年間3万人という数字をはじき出したのは、民間のシンクタンクであるニッセイ基礎研究所だ。

しかし、実際取材を重ねていると、その数は氷山の一角で、水面下でこの何倍も起こっているのではないかという実感がある。現に孤独死の清掃を行う特殊清掃業者は増え続けている。そして一見豊かな日本で、今この瞬間もどこかで孤立し、誰かが命の危機にさらされている。

これは、日本がとてつもない孤立大国へと突き進んでいることの証ではないだろうか。

孤独死現場で取材していると、失業や離婚など、ふとしたことで人生につまずき、人間関係から弾かれ、社会から孤立した人たちの姿が露になる。結果、誰にも頼ることができず、助けを求めることなく、崩れ落ちていくのだ。

しかし、それは果たして自分にとって他人事としてとらえていいのだろうか。私はそうは思わない。

「こうなったのは自分が悪い」は、本当か?

孤独、孤立研究の第一人者で社会学者でもある、早稲田大学の石田光規教授は、『孤立不安社会』(勁草書房)でこう書いている。

『「選択的関係」の主流化は、人間関係の資源化を推し進め、結果として、資源のない人間を関係性から排除していく。孤立死の増加から日本社会における排除傾向の強まりは明らかである。(中略)

孤立には排除の側面が色濃く見られる以上、孤立を自己決定の領域に追いやるのではなく、排除の側面にも目を向けていくべきである』

つまり、私たちは就職や進学など様々な選択を自ら選び取れる社会に生きているが、実は、親の資産や学歴、職業的地位などの恩恵に代表されるように、「持つべき者」が「多くの選択肢を持つことができる」社会になっている。

そして、それらの恩恵がもたらす人間関係という資源を持たない者は、自然とコミュニケーションの機会からも排除される。石田教授は我々の社会が「自主性」の皮を被らせて、関係を維持する資源を持たない人びとを巧妙に排除しているとしている。

私たちは、そんな現代社会において、どんな不遇な目に遭ってもそれを「自ら選択したこと」だととらえ、自己決定の結果として、自分の内面へと押しやりがちだ。だから、孤立して極限状況になっても、助けを求められない。

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私は多くのごみ屋敷の人に会ったが、こうなったのは自分が悪いと、ことのほか強く思っている人がほとんどだった。そして、彼らはまさに目前に迫りくる「死」ですらも、自己責任として、どこか達観しているようで諦め、受け入れようとしていた。その過剰なまでの自己責任感は痛々しく、苦しくなるほどだった。

しかし、彼女や彼らが、私やあなたにとって無関係で、無縁ではないと果たして言い切れるだろうか。私は元々ひきこもりだった時期もあるし、自分と彼らは地続きで、私は彼らのようになったかもしれないといつも感じる。私だっていつ排除される側に回るかもしれないからだ。

だからこそ孤独死がありふれた、こんな世の中は変えていくべきだと感じている。

現場の福祉関係者がよく、「困っていたら、声を上げてくれないと助けられない」と嘆いているのを聞く。命の危機にあるのに、なぜ行政を頼ろうとしないのかと不思議に思うのだろう。しかし、それは強者の論理かもしれない。

弱者が声を上げられない、過剰な自己責任社会が根底にあることを、もっと理解すべきだろう。そんな中、孤独・孤立対策担当室の設置である。

これから迎える季節、かけがえのない命のために

先日、私にも有識者として意見を聞きたいと内閣官房から連絡があり、ヒアリングに呼ばれることとなった。

国会議事堂の地下鉄の駅の階段を登り地上に降り立つと、地上のあちこちに警棒を持った警察官が立っているのが見えた。彼らは物々しくいたるところに目を光らせている。国家とは巨大な「力」そのものなのだと感じ、思わず緊張が走った。

いつだって、この世の中は声の大きい者が、力を持つ。死者は生前の苦しみを声を出すことはできないし、そもそも生前から助けを求めるようなことはできなかった人たちがほとんどだ。

だからこそ、その強大な「力」を持つ国は、死の現場から孤独孤立問題を見つめてほしい。孤独死の実態把握をしてほしい。その人が何で苦しんでいたのかを知り、それに寄り添って欲しい。

そんな思いの丈を、官僚の方たちに話してきた。話しながら、私の脳裏にはこれまでの孤独死の取材で、声も出さずに崩れ落ちてしまった人たちの姿が走馬灯のように蘇ってきた。うまく伝わったかはわからない。

今年ももうすぐ灼熱の夏がやってくる。

多くのかけがえのない命が、日本社会が抱えるこの暑さの犠牲にならないよう、祈るばかりである。

(文:菅野久美子 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)

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