2024.04.26

じつは「太平洋戦争」のさなかにも起きていた「南海トラフ巨大地震」…ほとんど報じられなかったその「被害の全容」

戦時下の南海トラフ巨大地震

太平洋戦争終戦の1945年前後で、1,000人以上の犠牲者を出した地震は、1943年鳥取地震、1944年昭和東南海地震、1945年三河地震、1946年昭和南海地震の4つで、戦中戦後の4大地震とも呼ばれている。鳥取地震と三河地震は内陸の都市直下地震である。

安政の東海・南海地震から90年後に昭和東南海地震が発生、その2年後には昭和南海地震発生という二つの地震が、最直近の南海トラフ巨大地震である。

【第1回から読む】「次は西日本大震災」…まさに次の国難「南海トラフ巨大地震」は本当に起きるのか

1941年12月8日朝、「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」というラジオの臨時ニュースが流れ、帝国海軍がハワイ真珠湾を奇襲し、米国艦船に大打撃を与えたことを知る。太平洋戦争の開戦である。

翌1942年、1月・フィリピンマニラ占領、2月・シンガポール占領、3月・インドネシアジャワ島上陸など初戦は破竹の勢いで華々しい戦果を上げた。しかし、4月18日には航空母艦ホーネットから発進したB-29爆撃機16機が開戦後初めて日本本土に飛来。東京市、川崎市、横須賀市、名古屋市、津市、四日市市、神戸市を爆撃。爆撃機隊の指揮官ジミー・ドーリットル中佐から「ドーリットル空襲」と呼ばれる。この時、日本本土爆撃を終えたB-25のうち15機は、中国大陸に不時着し機体は放棄された。その際搭乗員8名が日本軍の捕虜となっている。そして6月、ミッドウェー海戦で敗北(ハワイ諸島北西にあるミッドウェー島付近の海戦、日本海軍と米国海軍の機動部隊間の戦闘で、日本海軍は参加空母4隻全てが撃沈された。これが日本敗戦の契機といわれる)。にもかかわらず、大本営(戦時の天皇直属最高統帥機関)は、「わが軍の損害は少なし」と発表。新聞も「ミッドウェーの戦火拡大、わが戦果を世界に厳示」などと、あたかも日本軍が勝ったかのように報じた。その後、日本は各戦線で苦戦を強いられていく。翌年の1943年、4月・山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官戦死、5月・アッツ島玉砕、9月・鳥取地震発生(M7.2・死者1,083名)。そして、翌1944年、6月・サイパンで日本軍玉砕、7月・東条内閣総辞職、11月・米軍機B29による東京空襲。こうした敗戦気配の戦況不安と先の見えない重苦しい世情の中、12月に昭和東南海地震が発生する。

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1944年12月7日午後1時35分ごろ、熊野灘沖を震源とするM7.9の地震が発生。震源の深さは約40キロメートル。震源域は紀伊半島東部の熊野灘・三重県尾鷲市沖約20キロメートルから静岡県浜名湖沖とみられている。震度7は愛知県西尾市、静岡県菊川市、袋井市などと推定されている。津波は8~10メートル。南海トラフの東南海領域で発生した海溝型地震で、南海トラフ巨大地震の一つである。

地震の翌日12月8日は、日米開戦3周年にあたる「開戦記念日」であり、翌日の新聞各紙一面は昭和天皇の軍服姿の立像が飾った。唯一被災地の新聞「中部日本新聞(現在の中日新聞)」には三面の隅に、「天災に怯まず復旧、震災源は遠州灘」の見出しがあり、続けて「(中央気象台15時50分発表)本日午後1時36分ごろ遠州灘に震源を有する地震が起こって強震を感じて被害が生じたところもある」と書かれていた。しかし、被害の全容や詳細な報道はなく、救助・復旧作業が急速・万全に進んでいるようにのみ報じられている。全国紙の扱いはもっと小さく、中には全く報道していない新聞もあった。つまり、ほとんどの国民には昭和東南海地震によって大きな被害が出ていることは知らされていない。こうした報道管制や災害隠ぺいで、全国からの救援物資や義援金は得られず、被災地の復旧復興を大幅に遅らせることになった。

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